日本の観光地の中でも、とりわけ、国内にかぎらず世界各国から多くの人が訪れる京都。本屋の国内のガイドブックコーナーで、他の地域と比較しても圧倒的に幅を利かせて並べられている。そして、この私も今までに何度か訪れ、その度にまた来たいと思ってしまうのである。
この作品の著者もまさに京都の魅力にひきよせられた一人である。長年にわたり通い続け、綴られてきた京都は旅の記録というよりも日常の一辺を切り取ったかのような印象を受けた。
著者が京都を訪れるようになったのは大人になってからとのこと。惹かれるようになったその理由は、日本の歴史の中で常に栄枯盛衰の鍵を握っていた印象を受けたからだという。多少とも戦禍を免れ、歴史の香り、想像を巡らすことのできる景観が今もなお残っているからであると。そして、大人になるまで京都の地を踏まなかったことが良かったと述べている。そういえば、私の初めての京都は中学での修学旅行。その時の思い出といえば新京極で同級生と土産物を見て回ったことや旅館での夜のことが大半を占めている。やはり自分自身が年齢を重ねてからの方が建造物や景観などに感動し、多少なりともその歴史に興味をもち、京都という街並みを楽しめていると思う。
この作品では、巡った寺や神社、体験したお祭りなどの紹介だけにとどまらず、その土地土地での人との交流や京都ならではの情景などが語られている。例えば、タクシーの運転手との幾つかのやりとりは面白い。(京都のタクシーの運転手が嫌がる客、一番目はおいといて、二番目は「自分よりの京都に精しいお客」らしい。まさに時として著者はそれにあたり、ちょっとした嫌味を言われたりしている。)例えば、食に関して、「その土地の人が食べているのだから『美味しいのだ』という、信仰心」から、思った事を飾ることなく綴っているところに好感がもてる。そもそも、当初は知人、友人、関係する人々の為に書いていたものだそうで、そのせいなのか、その文章はかしこまったところがなく押し付けがましくもない。ところどころでお目見えする漢字を使った言葉遊び(「観無料」、「駄目絵字(ダメージ)」)など、ユーモアにも富んでいる。
著者の旅の仕方は自身が「少数派」と明言しているが、私からみてもそう思う。飛行機に乗らない、船にも乗らない、計画は全て自分で立て、時刻表はかかせない。宿などの手配も全て自力で。旅行会社にまかせてしまうことが多い私からみればなんて面倒なことをと思ってしまうが、でも失敗も旅の醍醐味と丸呑みしてしまえば、ひとつひとつが色あせず記憶に残っていくものなのかもしれない。ツアーをコース料理にたとえ、「出てくる料理の量と、胃の大きさとの相談が一切ない」「単品で頼むのは楽しいものだ。量的に誤算があっても、味に対する思い違いがあっても、全て納得する」というのはこの著者だからこその表現である。
正直に言うと、今まで旅行記の類はあまり読んだことがない。でも、自分が好きな場所を人がどのように辿っているのかを覗いてみるのも悪くないとあらためて思った。そこには、過去から現在へ移り行く時間の流れがあり、それこそガイドブックでは教えてくれない道がある。そして、私は、また新たな京都旅を想像し始めるのである。
(written by 倉科)
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