“吾輩は 猫である。名前はまだ無い。”
明治の文豪・夏目漱石による『吾輩は猫である』の有名な書き出しが、これである。それに対して、
“俺の名はノーチン。ヘンな名前だって?
そもそも人間が勝手につけた名前である。”
と始まる『流浪のノラ猫ノーチン』は、『吾輩は猫である』を手本とした、数ある猫を語り手にした作品の中でも、関西弁を自在に操る猫が主人公の物語である。さて、主人公の「ノーチン」だが、ノラ猫だから年齢不詳、多くの例に漏れず毎日の食事にも事欠く有様。しかも、元は飼い猫で人間を求めてしまう習性があるから始末が悪い。そんなこんなで、辿り着いた一軒の家の主夫婦が、「ノーチン」の名付け親にして、大恩人の「おっちゃん」と「おばちゃん」だ。後の展開からすると意外だが、最初の出会いは最悪だった。当時の飼い犬「ゴン」と「小太郎」の残飯を漁っていた所を見つかり、こっぴどく怒られる。しかし「ノーチン」、これまでにも沢山の人間に、嫌という程冷たい仕打ちをされてきただけあって、人間を見る目はある。流浪の旅を繰り返す中でも、いつも2人のことが頭から離れない。恋人と別れ傷心を抱えて舞い戻って来たのを機に、本格的に夫婦の世話になることとなる。夫婦の優しさが、さしものノラ猫の放浪癖を静めたとも、「ノーチン」の粘り勝ちとも言える、人間と猫との物語の始まりである。
夫妻の世話になっているとは言っても「ノーチン」は、完全なる飼い猫に収まった訳ではない。そこは、長年のノラ猫暮らしが身に付いているので、食事の心配さえなければ、取りあえず安泰とばかりに、自由に外を歩き回る。なので、他の猫たちとの接触もあり、時に「おばちゃん」を怒らせるような、一触即発の出来事も起きる。なにせ、夫妻は「ノーチン」以外のノラ猫の面倒も見ているので、必然的に「ノーチン」の観察対象になり得るのだ。特に印象的なのが、オスにもかかわらず「花子」と名付けられた猫だ。
“俺から見たらちっとも可愛くないけどな”
「ノーチン」の「花子」評だが、子猫の頃から知る夫妻には、たとえ「ヒゼンダニ」にやられて傷だらけだろうが、そんなことはお構いなし。最期を看取ってくれた夫妻に「ニャーン」と律義に礼を述べて旅立つ「花子」の逸話は涙なくしては読めない。傷ついた猫の世話はもちろんのこと、日々「猫の会席料理」を振舞う夫妻の愛情と気遣いが実に温かい。しかし、それが裏目に出ることもある。晴れて夫妻の飼い猫となった「ノーチン」の娘の「タコ」に首輪をつけたばかりに、大捕り物に発展。嫌われ者となった「おっちゃん」を尻目に、「おばちゃん」の後をついて回るようになった「タコ」を見て
“まるでいちの子分やな”
と呆れる「ノーチン」。「おっちゃん」に撮ってもらった写真を見せられた時には
“我ながらけっこう男前やんけ”
と満更でもない。そんな「ノーチン」の語りが特に冴えているのが【猫の本音】の章である。知ったか振りの猫好きには耳の痛い毒舌も交え、猫の常識を覆すような話題も盛り込まれていて、猫好きならずとも為になる。謎を秘めた「猫の集会」の真実については
“これだけは秘密や”
と頑として語ろうとしないのは、人間側の事情というのが本当のところだろうが、「ノーチン」の律義な性格を物語る材料ともなっていて、この辺りの手際も鮮やかだ。【ノーチンからのお願い】は、動物愛護の精神を広めるために書かれたものだが、「ノーチン」が説く俯瞰的視点は人間社会にも充分に当て嵌まる。存分に語り尽くした後は
“アバヨ”
と読者に別れを告げるエンディングが清々しい。人間もかくありたいものだ。
(written by 吾輩も猫である)
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