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『「箸」の「箸」による「箸」のためのはなし』公式レビュー / 第20回

2015/08/14(金)

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 昨年、最年少でノーベル平和賞を受賞した少女は「1人の子ども、1人の教師、1冊の本、1本のペンでも世界を変えられる」と演説したが、本作の著者にいわせれば「1膳の箸でも世界の見方は変えられる」となるだろう。

 蕎麦屋でご馳走してくれた上司から「箸の持ち方が変だ」と指摘されてもさして気に留めなかったものの、その数年後にカナダで日本文化を紹介する活動の機会を得て、「箸の正しい持ち方」を意識することになった著者。その経験をきっかけに箸の歴史や食文化に関心を持ち、ついには本作を出版するに至った。とはいえ、箸にまつわる伝統や行儀作法を鹿爪らしく解説する内容ではない。肩肘張らず、好ましい慎ましさで書かれた本作は、「思考の箸休め」と位置付けられている。家庭、学校、会社に関する大小さまざまな悩みや不安が根を張る日常生活にあって、「考える必要がないもの、考えなくても生きていく上で支障がないものを、ふと考えるという息抜き」(p4)を著者は勧めているのだ。

 私たちは普段、文法を参照しながら喋ることはないし、一挙手一投足に注意を払って歩行することもない。同様に箸の使い方を意識しながら食事はしないが、「箸は万能選手(オールアラウンドプレーヤー)」の章を読むとその多機能性に気付かされる。味噌汁の具を押さえる、貝の身を剥ぐ、白米を摘む、海苔で巻く、卵焼きの黄身を切り分ける、魚の身をほぐす―― 朝食だけでもこのパフォーマンスである。ナイフ、フォーク、スプーンがずらりと几帳面に並べられる西洋料理の食卓は壮観だが、カトラリーと比較すると箸の多機能性が際立つ。それは「しなやかさ」と言い換えてもよいだろう。「箸と人間の指の能力が合わさり、物理的に素晴らしいものになる」(p28)の一文からは、かつて不器用に箸を使用していた著者の素朴な驚きと感心が伝わるのだが、同時に、箸のパフォーマンスを最大限に発揮できる持ち方こそが正しい、という合理的かつ弾力的な発想も垣間見えるようだ。

 もちろん著者は、伝統や風習を軽んじたり躾を否定しているわけではない。置屋のおかみさんから、特に箸使いは「うるさく躾けます」との話を聞き、「厳しい躾と、習い事、芸事を乗り越えてこそ、たおやかな物腰の奥に、凛とした姿勢、誇りが存在しているのだろう」(p40)と思いを巡らせる。私たちが舞妓さんの一挙一動に感動するのは、一朝一夕では醸成され得ない文化をそこに見るからだ。この意味で、箸の存在が文化なのではなく、私たちの箸使いが文化を形成(継承)するといえるだろう。前述した箸の「しなやかさ」は本有的ではなく、「人間の指の能力が合わさ」って初めて生じる。

 本作はこのほか、箸の数え方(食具の箸と火箸・菜箸は異なる)、英語「chopsticks」の語源、「箸感謝祭」といった雑学的トピックや、夏目漱石の著作を箸文化の観点から着目するなど、興味深い内容を含んでいる。また、全編を通して押し付けがましさがなく、むしろ「(長い間、違った持ち方をしていた私が)箸の正しい持ち方を教えることなどおこがましい」(p30)、「興味がないと言われてしまうかもしれないが、私の“お気に入り”も紹介したい」(p78)など、読者が恐縮してしまう箇所があり、そのつづまやかな文章も本作を魅力的にしている。

 時代とともに変遷してきた生活文化史の波打ち際で、千年以上にわたって形態を変えず使用されてきた箸。その文化的価値は注目に値するが、本作はあくまでも円転自在の箸使いのように軽やかな読み物だ。著者のいう「思考の箸休め」は時に、忙しない日常生活に花をあしらい、その静かな香気は思考を「しなやか」にする。

(written by 香月)


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『「箸」の「箸」による「箸」のためのはなし』田中美穂子・著ダウンロードページ

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