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『風のように、水のように』公式レビュー / 第24回

2015/11/04(水)

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 人生の中で、自分自身をみつめるときがある。その時人は何を思い、どう行動するのか。

 お遍路とは四国八十八か所の札所を廻って巡礼することである。この八十八か所とは、空海(弘法大師)のゆかりのある寺院の総称で、四国霊場でもっとも代表的な札所のことだ。巡る目的は、元来の信仰に基づくもの、健康祈願、開運、また現代では自分探し、癒しなどを求めて行う人も少なくないという。

 本作の著者が当時の四国の東の玄関口、徳島小松島港に降り立ったのは昭和48年5月4日。今から41年前のこと、21歳。自分自身の21歳を振り返るとまだまだ何もわからず、そのくせわりと安易な考えをもっていたような気がするのだが、著者はどこか思いつめながら、家出同然でこの旅を始めている。
 私がまずびっくりしたのは、旅の始まりがいきなり野宿というところ。一日に使う金額を百円とし、それはほぼ食費に充てる。もちろん今とは百円の価値は違うはずだが、それにしてもなんとも過酷な旅。まさに巡礼、修行という文字が頭に浮かぶ。

 そんな、自らに課す規律を含めて、最初は頑なな印象を醸す著者。時折ちらつかせる「死」という言葉からも、彼のそれまでの人生で何があったのだろうかと思ってしまう。ただ、この旅の途中で出会う数多くの人達によって、その雰囲気は和らいでいったような気がした。最初に立ち寄った安楽食堂の夫婦、徳島で同行したおばちゃん、修行中のお坊さん達、その中の一人色摩さん、岩本寺のお婆さんなど、様々な出会いと交流のエピソードが綴られている。著者自身の述懐としても「印象に残っているのは寺でもなければ旅のきつさでもない。いろいろな人との出会いである。しかし、それはすべて旅の途中、つかの間のことである。だがそのひとつ一つがとても大切なことのように思い出される。一期一会というのはこういうことをいうのだろうか」とある。時折挟まれている後日談からも彼がこの出会いをどれだけ大切しているかが窺え、あらためて人は一人では生きることはできないと認識させてくれた。

 本著の前半で、著者がお遍路の一団からお金を渡される場面があり、不思議に思った。これは、「接待」というものだそうで、四国では「お遍路さん」を「尊い人」として扱い、その道中で食べ物や、旅の費用の足しとしてお金を渡す風習があるそうだ。道理で、その後も地元の人々からの食事や寝床の提供など、たくさんの「接待」が出てくる。また、ある寺男が著者に向けて「遍路に出られない人たちにとってお前たちは、大師が歩いているのも同じなのだ。自分たちが遍路に出られないだけに、お前たちに思いを託そうとしてお接待をする。そのような人たちの気持ちを拒否してはならん」と説教をする場面が印象的だった。そこに込められた想いにはとても深い意味があるのだとわかり、今もこの風習は形を変えることなく残っているのだろうか、残っていてほしいと思った。

 著者が最後の札所に到着したのが、6月13日のこと、延べ40日間の旅。著者の中で、大きなことを成し遂げた充足感と、終わってしまったことへの脱力感と、この先への不安感、様々な想いが渦巻いていたことが最後に語られている。そして、「果たしてわたしは何かを掴むことができたのか」と述べている。多分その「何か」を説明することは難しいのだろうけど、この1冊を読み終えた私は、その何かを得て著者は確かに変わったのではないかと思えた。

(written by 倉科)


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