紀行文を読んで旅心を誘われるということは、普通にある。そういう作品では、待望の旅に身を浸すやいなや、その土地と一体化したような著者の熱烈な賛美の筆に自然と心が躍る。一方、破天荒な著者の行動に、到底真似はできないと恐れをなしつつ目が離せなくなる旅の記もある。そんな作品の中での主役は、あくまで著者。時に風光明美な、時にこの世の果てのごとき荒ぶれた土地を背景に、確固たる足どりで旅路を行く著者の思考と行動が作品の魅力を決定づける。
紛う方なく後者に属する本書は、タイトル通りシニア世代の著者が自転車でヨーロッパを縦横無尽に巡った旅日記だ。というと、恐れをなすほどのことはないじゃないかと思う向きもあるかもしれないが、それは違う。充分恐れるに足る旅行記なのである。
「シジュウカラ」「カンレキ」「ロハ」「ロク」「ナナエ」――はたしてなにあろう、これらは歴代のペットの鳥の名などではなく、欧州放浪の誰よりも親密な相棒であった自転車の号で、当時の著者の年齢に因んで付けられている。つまり、40歳、60歳(カンレキ1号・2号あり1年の間に2度の旅)、68歳、69歳から70歳(旅の途中70歳になり「ロク」が「ナナエ」に改名)と計5回、それぞれ1ヶ月から4ヶ月に亘る自転車放浪のひとり旅が決行されたのだった。シジュウはまだよし。カンレキとなるとちょっと怪しい。70歳。それはもう、はっきりとただごとではない。
欧州自転車旅行といったって、高性能自転車をのんびりコギコギしながらあの町この丘と巡るような優雅な旅ではあるはずもなし。1日100キロ越えはざら、ひたすら距離を稼ぎはるか先を目指すという荒行は、さながらひとりツールドフランスである。69歳から70歳にかけての著者最高齢での旅は3ヶ月間に及んだ。それは、ポルトガル・リスボンを皮切りにスペインからピレネー山脈を越え、フランス、スイス、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニアと抜け黒海をぐるりと下ってトルコ・イスタンブールまでのおよそ6000キロの道程で、ヨーロッパ大陸の長いところをほとんど横切っているときては、しまなみ海道を渡って悦に入っている太平楽なサイクリストなどはもう平伏するしかないのである。
いうまでもなく、星付きのホテルライフなどは見る影もない。基本はユースホステルやモーテルなどの安宿で、しばしばビバークもしており、それが時にテントも張らない身体ひとつでの野宿というちょっと目をむくような野性っぷりなのだが、とりわけ心に響いてきたのは、草のベッドで星を見上げながら過ごすそんなシーンであったから不思議だ。「10日くらいの輝く月の光と、草と林の匂いに包まれ、ナイチンゲールの賑やかな囀りを聞きながら、夢路へ」(p.194)どこか郷愁を呼び起こすような五感の優しい記憶と共に夢路に導かれる――確かにそんな夜は、幾千幾万の中でも忘れ得ぬ一夜となるような気がする。
自転車ツーリングにしろランニングにしろ長距離を走る人の気持ちは、何が楽しくてどこに夢中になるのかと、未体験者にはわかりにくい。けれど40代から挑戦を重ね、70歳を過ぎてもさらに次の放浪を思い描く著者の気持ちが何となく理解でき、うらやましさを覚えるのは、その旅が何かを達成するという意識だけではなく、著者自身の自由な精神によってなされたものだからだろう。人は風のように雲のように自由でありたいと願い、風でも雲でもなく人間だからとはなからあきらめるわけだが、そんなことはないと教えてくれる、最強のシニアボヘミアンがここにいる。
(written by 江藤)
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『何処へ行く気分は風のボヘミアン 欧州シニア自転車放浪記』北澤夏司・著ダウンロードページ