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『誰もが幸せになれる仏教とは 体験的仏教論』公式レビュー / 第9回

2015/02/12(木)

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 東日本大震災が起きた2011年とその翌年は、宗教関連本の売行きが好調であったという。人との絆や家族関係の重視が金看板となり、宗教者のメディア露出が増えた当時のムードについて記憶に新しい人も少なくないだろう。また、11年3月、4月は婚姻・離婚件数が増加したという記事も見られ、震災を転機として人々の問題意識が内面(生死や禍福)に向かった、という分析も成り立つかもしれない。けれども、「自分にとって宗教とは何か」と自問した人は果たしてどのくらい存在するだろうか。
かく言う筆者も宗教にゆかりがあるわけではないが、「日本人口の半数が無宗教」( ピュー研究所 )と断言されると首を傾げたくなる、と同時に、積極的に異論を挟む切実な動因があるわけでもない実情も再認識させられる。この煮え切らなさが「無宗教という宗教」の境位なのかもしれないが、「日本人にとって最もなじみ深い外来宗教は?」と聞かれれば、大半の人は仏教と答えるだろうし、この憶断もまた大方に共有されるものではないか。

 僧侶がバーテンダーを務める「坊主BAR」が人気を博し 、「Tariki Echo」というユニットを組んだ現職の住職がレゲエに乗せて読経するという現代の情況に眉をひそめる向きもあるかもしれない。けれども、形骸化した葬儀・法事のあり方に疑問を投げかけ、旧態依然とした仏教に自己変革を促す潮流は以前からあり、お寺カフェインターネット寺院 など「開かれたお寺」を目指す動向も見受けられる。本作の題名にある「体験的仏教論」は、こうした時局に照らした文脈で解釈できる。実用的であり、対話的であり、身近であること。事実、本作では著者と高校生との会話形式が採られ、「世間の真実が仏教ですか。いささか退屈ですけど」(p65)、「だから仏教ってつまらないんですよ」(p150)など屈託のない10代に、思春期・青年期の日常シーンも仮想させながら「功徳」「縁起」「空」「涅槃」といった仏教用語を説明している。

 本作の勘所のひとつは、末法時代においては「仏の教えではなく、仏になる教えによって救われる」(p87)という点だろう。(時期の長短は諸説あるが)仏が入滅した翌日から一千年間は「正法」、これに続く一千年間は「像法」と呼ばれ、その後の一万年間は「末法」と呼ばれる。現代は「末法」(=教法のみが存在し、悟りを開く者がいない時期)の時代に属するといえる。そして著者は、「仏になる教え」について「一緒になって憐れんでくれる悲母の愛ではなく、一人前にさせる厳父の愛」(p92)と簡潔に述べている。「縁なき衆生は度し難し」 。それでは「縁」とは何なのか。本作では、「末法という時代」の後に「縁について」という章が設けられていて如才ない。

 事件、犯罪、紛争の記憶やイメージが否応なく絡みつく「宗教」という言葉を耳にすれば、ある種の「いかがわしさ」が頭をもたげる。宗教問題も頬かぶりする方が安心できるという心情も打ち消しがたい。それでも、心の中で伏流する苦悩や不安は濾過できるものではない。これら負の心性に予期せず駆られるとき、”生きるよすが”を求めようとする衝迫も経験的に理解できる。ただし、本作のいう「仏教」は、拠り所としての宗教というより、現実を直視する忍耐、成熟した智慧と人肌の慈しみをもって得る幸せに関する教えだといえる。特別なことではないが決して簡単ではないこと。神秘性や癒しを呼び水とした宗教ではなく、「他人の幸福を真剣に祈り、自分も幸せになる信仰」(p202)というプラグマティックな仏教について、著者の「体験」が教えてくれる。

(written by 香月)


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